なぜイースター島については謎が多いのでしょうか?
1度はほぼ絶滅してしまった文明だからです。
1722年、1770年、1838年、1804年、ヨーロッパの船がイースター島にたどり着きその様子を伝えている。
1722年、提督ロッゲフェーンの報告は現地人はモアイ像に頭を下げお祈りをしていたと報告している。
約50年後の1770年にこの島を訪れたクックが見たのは倒されたモアイ像だった。
島のあちこちに倒されたモアイ像が散乱し、島の人々は全く修復しようとしていなかったと報告している。
それからさらに約60年後の1838年にはアフの上にあったモアイ像はわずか9つしかないとフランス提督のデュペチ・ツァルは報告している。
この100年間の間に何が起きたのだろうか?
ポリネシアに、ヌク・ヒワという島とヒワ・オワという島がある。
テ・ランギ・ヒロアという学者によると、人間は中央ポリネシアからここにやってきて、岩ばかりの島の深く孤立した谷間に根を下ろしたという。
マルケサス諸島に着いた人たちは、このヒワ諸島に自分たちのユニークな文明を作り出してゆく。
ヒワ・オワでは木や石の素晴らしい彫刻が造られ、ヌク・ヒワでは石積みの技術が高度に発達していった。
そのヒワにはホツ・マツワという酋長が住んでいた。
ある時、彼の弟が一人の娘に恋をした。
しかし、この娘には隣の部族のオロイという名前の強力な酋長が想いを寄せていたのだった。
そこで娘はオロイが休むことなしに島を1周することができたら、彼の嫁になるといった。
オロイはこの要求を聞き走り出した。
ところが、彼が島を1周しているうちに娘はなんとホツ・マツワの弟と一緒に姿を隠してしまったのだった。
激怒したオロイはホツ・マツワ一族に復讐をすることを宣言する。
オロイの復讐をおそれて、ホツ・マツワの弟は娘の他に6人の同行者を連れてヒワを去ることとなる。
まもなくホツ・マツワ自身も復讐に燃えたオロイと3回戦って敗れ、逃げ出すことを余儀なくされた。
そして、移り住んだのがイースター島であった。
このときからホツ・マツワはイースター島に君臨することとなる。
まもなく最初の戦いが始まった。
ヒワのオロイがホツ・マツワの従僕に化けて島に上陸したのだ。
彼はホツ・マツワの同行者や子供を殺したが、結局ホツ・マツワに殺されてしまった。
この当時この島の社会は4つのグループ(カースト)にわかれていた。
1番はいわずと知れた酋長のグループ。2番目は神官、そして3番目は戦士、最後の被支配層は奴隷であった。
しかし、そのホツ・マツワも病気には勝てずに死んでしまう。
ホツ・マツワの長男はヒワに帰ったので、酋長のツゥ・コ・イフがその地位を継承した。
ちょうどこの頃にハナウ・エエべといわれる部族がこの島に渡ってきた。
そして今度はこの部族との内戦が始まったのだった。
ハナウ・エエベは最初の内は島の東部のポイケ半島に住み着いていたが、だんだんとホツ・マツワの部族を侵略し、やがて島全体を支配下においたのだった。
彼らが支配していた時代は非常に長くつづくことになる。
この時代にモアイ像の建設がされたのだった。
ハナウ・エエベは過酷なまでに島民をモアイ像建設に酷使した。
伝説では、ハナウ・エエベ族の一人が30人の子供を殺してこれを食べたとき、被支配階級だったハナウ・モモコ族の怒りが爆発した。
両部族間で激烈な戦争が勃発したのだ。
これが、後に伝えられる「モアイ倒し戦争」である。
そして、ハナウ・モモコ族はハナウ・エエベ族に勝利したのだった。
下克上である。
ハナウ・モモコ族は勝利のあともモアイを倒し続けた。
なぜなら、モアイ像は自分たちを支配していた歴史の象徴だったからだ。
モアイ像の歴史はここで終止符を打つことになる。
(今現在のモアイ像は、このずっーと後に文化財保存の観点から修復再建されたものです。)
この後、イースター島の歴史は鳥人崇拝へと移り変わっていく。