あまり観ることのなくなったテレビの有効活用(RaspberryPi 3B)
- 2021/02/28 17:31
- カテゴリー:グッズ
・Raspberry Pi 3B は、5V 2.5A 以上で動作します。
よく売っている 5V 2.4A のUSB変換器ではエラーが出ることがあります。
専用電源を買っても、1000円ちょっとかなー?
■各種設定
curl -fsSL https://pi.vpetkov.net -o ventz-media-pi
sh ventz-media-pi
酔っ払いぢぢいの独り言。数か月に一度のゆるいUpDateです。暖かい目で見守ってよ。
「みんなで仲良く」とか「ともに幸せになろう」などと言うのは一部の人間のきれいごとであり、本来、生き物というのは残酷なものである。
もともと全ての生き物は他の生物を捕食して成り立っているものである。
つまり、他者の犠牲の上で成り立っている。
ベジタリアンとかビーガンとか言ったって、何も食べないわけにはいかない。
動物はだめだけど、植物はOK?
まー、それは人間の勝手な理屈ですよね。
植物だって、生き物には違いはない。
感情の有無?
はて?それも勝手な人間の理屈なのでは?
牛や馬、犬や猫と感情を分かち合える。はい。それはそうかもしれません。
植物には感情はない?
さぁ?それはどうなのでしょう?
細胞のひとつ一つが痛いとか不快とか感じるのかもしれません。
それを知る手段が、今の人類にはないだけで。
細胞の中のミトコンドリアだって、元は別の生物だったわけですからねー。
ここで言えるのは、生き物とは他の生き物の生命を奪って生きている、ということ。
これは、残酷だ。。。
ところで、幸せとはどういう感情なのか?
まず、幸せというのは絶対値で感じるものではなく、相対値で感じるものである。
一日3回ごはんが食べられて、スイッチ一つで暖かくも涼しくもなり、手を伸ばせば近くに娯楽もある。
そんな状況が幸せなのだとしたら、日本人は皆、幸せであろう。
しかし、日本人の幸せ度は世界で比べると低いらしい。
世界中の人の置かれている環境を数値化して、1から10までに並べる。
生活水準と一言に言ってしまえばそれまでだが、住環境、食の環境、道路や生活インフラなどの環境、学ぶ環境、仕事の環境、それらをみんな数値化して、その人の置かれている状況を数値化する。
餓死しそうな人は、食の環境は1。(餓死しちゃった人は0か)
学校が歩いて行ける範囲に物理的に存在して、子供が教育を受ける権利を大人に対して義務化している環境は5、とか。
自宅に水道が引いてある環境は4、とか。
それがそのまま飲めるなら8とか。
(アラブの砂漠の民に「湯水のように使う」という表現は理解できないだろう。)
自宅に水洗トイレがあれば5で、トイレットペーパーをそのまま流せるなら6とか。
掃除をされたトイレに、暖かくて清潔な便座があれば9かな。
(日本の女子高生がトイレで便座に座ってパンを食べている映像が衝撃的だ、なんて言われたことがあるよね。)
誰でも決まった手順さえ踏めばパスポートが取得できるなら5。
年収の10%未満で海外旅行ができる国は8とか。
世界中のほとんどの国に短期間ならビザなしで渡航できるなら9とか。
(日本のパスポートはミラクルパスポート)
まぁ、数値の決め方には反論もあるかもしれないけど、てきとーに数値化していく。
いずれにせよ、同じ尺度で世界中の人を測ることが大事。
そんなこんなでカウントした数字を平均化したのを環境トータルスコアと呼ぶことにする。
普通、真ん中の5より上なら、幸せな環境といえるのではないか?
客観的に見たらね。
おそらく日本人もそのあたりの数値に沢山分布しているのではないだろうか。
真ん中より上。
トッピンの上クラスではないけど、中の上って、いいポジションだなーと、僕は思う。
ほとんどの人にとって、飢えもない代わりに一生使い切れない金があるわけでもない。
そんな社会を目指してきたのが日本なのかな。
一部の特権階級が数百億円の資産を持ち、かたや年間所得が数百ドル程度の人が沢山いるような国より、よっぽどいいだろう。
発明や社会貢献で得た金ではなく、ただの権威や政治的地位であるならば、なおさらだ。
日本は、数百億円、数千億円、ともすると数兆円の特権階級が得られる可能性があったであろう金を、国民全員で享受してきたからこそ、一億総中産階級ともいわれる社会ができた。
それは、一つの理想国家だと思う。
広く世界を見てみると、今日明日中にまともな食糧が手に入らなければ、確実に餓死してしまうという人も沢山いる。
暖かい暖炉の横の窓から外を眺めると、庭にプライベートジェットの滑走路が見えるような家に住む人もいる。
日本には、いずれも、いない。(超特殊な人を除く)
しかし、その僕らが自分を幸せに思うかどうかは、まったくの別の話だ。
あいだみつをは言う。
「しあわせは、いつも自分のこころがきめる」
おっしゃる通り。自分が決めるのだ。
誰かに「お前は幸せだ!」と言われて、その人が幸せを感じるわけではない。
むしろ、他人からそんなことを言われたら「お前に俺の何がわかる?」「こんなことやあんなこともあって、本当は不幸なんだ!」と思うかもしれない。
つまり人間の感情とは絶対値によって決まるのではない。
感情は非論理の世界。
理系の人がいくら論理的に説明しても、人の感情は相対的な感覚で決まる。
客観的に、いかに幸せかを説明されても、その人が幸せになれるわけではないのだ。
極論します。
窓の外に、凍えているマッチ売りの少女がいるからこそ、暖かい暖炉の前にいることが幸せなのだ。
飢餓の危機を救う活動をしている団体に、ただならぬ寄付をする大金持ちは、目の前の不幸な人を救うことに幸せを感じるからに他ならない。
世界中の多くの不幸が身近に感じられないことこそが、日本人の不幸の原因なのではないか?と僕は思う。
公園の水道をガブガブ飲んでも、衛生的な理由でおなかを壊すことはない。(飲みすぎは駄目よ)
日本のホームレスは太っている人すらいる。
生活保護でパチンコしている人もいる。
さて、さっきの環境トータルスコア。
5~7くらいの人を抜き出してみよう。
真ん中より下の人を除いて、あと、上位2割の極端な人達をはずす。
すると、どうなるのか?
その5~7の人が、その中で改めて1から10に分布してしまうのだ。
つまり、5~7だけの人たちの世界では、5.0は一番底辺。
5.1、5.2と上がっていき、7.9が頂点の分布図が改めて出来上がるのだ。
そうするとどうなるか?
5.1とか、5.2の人は不幸におちいる。
たとえその人が世界の中で平均以上だとしても。
5~7だけを抜き出した世界では、最底辺なのだから、そりゃ不幸だ。
それが日本。
窓の外に凍えたマッチ売りの少女がいなくなった世界では、暖炉の前が幸せで、暖炉から遠い壁のそばに座る人が不幸なのだ。
他人の不幸があってこそ、自分が幸せを感じる?
たとえそうであったとしても、人間は誰しもそんな自分を卑下する必要はない。
生物学的にそれは正しいのだから。
生物学的に、というと、範囲が広くなってしまうけど、進化論的に、と言い換えてもよい。
生物は生き延びるために様々な工夫をして進化を遂げてきた。
今は、そのピラミッドの最上位に霊長類ヒトが存在するのかもしれない。
かつてはその席に恐竜達がいた時代もあった。
同様に、永遠に霊長類ヒトがこの席に座り続けるとは限らない。
(300年とか500年後には、このピラミッド最上位の席にバクテリアとか特殊な細菌が座っているかもしれない。)
しかし、必死に生き延びてきた歴史の上に胡坐をかいた人類は、生き延びるという過酷な競争を忘れかけている。
いじめを撲滅?
小さな金魚鉢の中でも、弱い金魚は強い金魚から突っつかれて、尻びれをズタズタにされて死んでいく。
強い種が生き残る。
それが、生物にとって、自分の種が生き残るための最適解だから。
(いじめをなくすのではなく、陰湿ないじめ方をなくすのがよいのでは?ジャイアンがのび太をポカスカ殴ることよりも、スネ夫が誰にも気づかれずにのび太を陥れたり辱めたりするようなことをやめさせるべき、かと。)
男女平等?
男は他の動物や他の種族からの襲撃に備え、命を張って村を守ってきた。
そして女は命を懸けて出産し、守られた安全な村の中で懸命に子育てをして暮らしてきた。
男は常に外敵を気にして生きてきたから、立っておしっこをするのだし、SEXの後、射精するとすぐに賢者タイムといわれる現実に意識が戻る。
(男女を同じにするのではなく、適材適所がいいんじゃない?)
地球温暖化対策?
恐竜のいた頃、地球の大気中の二酸化炭素は今の20倍もあった。
さらに遡って、突然変異によって酸素を作り出すバクテリアが生まれる前の酸素濃度は1%未満だった。
この酸素を生み出すシアノバクテリアは、それまでの生き物をほとんど焼き尽くし、壊滅させた。
二酸化炭素によって平均気温が上がって人類が絶滅するなら、絶滅したらよい。
そのあと、その温度に適した生物が、この世界に君臨すればよいだけだ。
(そもそも、本当に二酸化炭素によって温暖化しているのか?のエビデンスも、はっきりしていない。あと、北極の氷が溶けて海抜が上がるというのも嘘だ。コップ一杯に入った水に氷が浮かんでいる。その氷が溶けてもコップから水が溢れないのと同じ理由。氷の体積は水になったら小さくなるため。)
人間は、生きるための努力をする必要がなくなってから、おかしくなってきたのかな。
閑話休題
人は皆、幸せになる権利がある、なんて言うけど、幸せとは残酷なものである。
その感覚が相対評価である以上、すべての人類が幸せになるということは、論理的にあり得ない。
幸せというのは、常に不幸の対角線上にある状態を指す言葉なのだから。
だから、きれいごとを並べるのではなく、その残酷さを理解した上で自分の幸せを追求し享受していこう。