最近、ある人の本を続けて何冊か読んでいます。
それは村田信一という報道カメラマンの本。
取材っていろんな手法があるし、その人その人の得意不得意もあって千差万別。
ただ、この人の本は僕にとっては新鮮だった。
何が新鮮か?って言うと、地に足がついた報道と言うか、目線が非常に現地の庶民に近いと思うのだ。
いわゆる報道と言うとその国の政府の見解とか、戦争報道なら軍の発表に頼る部分がすごく大きく、そんな国目線での報道がほとんど。
しかし、村田さんは地に足が着いている。
その国で暮らす庶民がどう思っているか?をある側面から切り取った取材が多いと思うのだ。
分野としては戦争報道が多いのだけど、レバノンでも、チェチェンでも、ソマリアでも、軍の広報からの情報なんていうプロパガンダでこねくりあげた情報などは一切取り上げず、実際に自分の目で見て耳で聞いたことを報じている。
だから、断片的ではあるのだが、一つひとつのリアリティーが凄まじい。
また、日本の一般的な報道は欧米からの視点で成り立っているが、村田氏は、あくまで地元の人々の視点での報道をしている。
(地元の人は必ずしも、欧米各国と同じ主張ではないかもしれない訳で。)
なので、日本の一般的なTVニュースや新聞を見慣れた人には違和感があるかもしれない。
それは、取材方法の違いによるところが大きいだろう。
例えば、ソマリア内戦への国連平和維持軍駐留の報道についても、TVでは現地中継と言っても、ナイロビからの報道が多かったのだが、ナイロビでどれだけの情報収集ができるのだろうか?
(ちなみにソマリアの首都はモガデシュ、ナイロビは隣国ケニアの首都。)
当然、国連平和維持軍の報道官からの情報やケニア政府、ソマリア政府の出先機関の情報がほとんどを占めることになる。
村田氏の取材は、まず、現地に行く。これに徹底している。
公式情報で「現地には入れない。」と言われようと、現地に行く。
でないと、現地に住む人々が何を思い、何を見ているか?という、取材にはならないからだ。
その為には当然リスクを負うことにもなるが、本当は何が起きているのか?
に肉薄することができる。
ロシア軍が支配するチェチェンでは、直接入国はできず、お隣のダゲスタン共和国から陸路での入国を目指す。
当時、ジャーナリストに対してナーバスなロシア軍(ロシア軍の人権侵害についての報道が多かった)から身を隠す為にダゲスタンにいるチェチェン人の民家を転々としながら国境を越える。
チェチェン人の案内人(イスラム義勇軍兵士?)と一緒に夜の暗闇に紛れて山を越え昼間は民家で体を休める毎日が続く。
無事、チェチェンに入国を果たし、シャトイという村でその村の行政長と知り合う。
彼の手引きで、首都グロズヌイへようやく辿り着く。
その後、グロズヌイの潜入取材の後、ロシア軍の虐殺があったといわれる村へその真実を見るために向かう。
途中、路線バスの後部座席に堆く積まれた地元おばちゃん達(行商かな?)
の荷物の下に隠れて無事検問を突破するなんていうエピソードもあった。
勿論、おばちゃん達の全面的な協力があったことは言うまでもない。
言葉も通じないのにここまで周りが協力してくれる人間関係を築けるというのは村田氏の特技だろう。
これは、1996年04月の話だ。
その年の暮に、チェチェンは終戦を迎えている。
戦争についての一般論では、終戦間際というのが最も激しい戦闘がある。
ちょうどその時期の市民の目線での日本語での報道は殆ど他に類を見ない。
戦争ではないが、エボラ出血熱が大流行したザイールの取材では。。。
コンゴ共和国がまだザイールと言われていた頃、キクィトという小さな村では全身から血を噴き出し死ぬという奇病で、日に数人が亡くなっていた。
直接ザイールには入れないため、一旦隣のコンゴ民主主義共和国の首都であるプラザビルに飛ぶ。ここからは車と船を使ってザイールへ向かう。
国境ではカメラ機材リストのついた大使の紹介状を持っているにも拘らず荷物チェックに金を要求される。ここはUS$5で突破するものの、あちこちの部署をたらい回しにされつつ国境のビルを出た時にはUS$70が消えていた、と書かれている。
ようやくザイールの首都キンシャサに到着。
日本大使館では何も情報は得られず、赤十字へ。
日々変わるリアルタイム情報を得つつ、情報省の許可証がないとキクィトで取材ができないことを知る。
許可証を手に入れキクィトをお訪れ取材を進めていく。
まさに事件が起きているキクィトという村にはジャーナリストはほとんどいない。皆、逃げ帰ったのだ。
そこにいたのはオーストラリア人のジョン氏とカナダのテレビクルー4名だけ。
世界中で報道されているキクィトの村には、ジャーナリストは実際にはわずか6人しかいなかったのだ。
エボラ流行の渦中の村で、村田氏が見たものは。。。
(こちらについてもその先の取材内容については本を読んでね)
これが本当の取材なのだろうけど、新聞記者やテレビスタッフが皆がこれをやろうとしたら、命がいくつあっても足りない。
それに自社の社員を社命でこのような手法を取らせるわけにはいかない。
高確率で殉職するだろう。(村田氏はフリー。)
だから、すべてのジャーナリストに同じことをやれ、とは言わないけど、こーゆー手法の取材記事も一つの事象を一面的に見ないためにも知ることが必要なのだと思うし、
それを読むことで、一つの事象を多面的に見ることができるようになる。
徹底した現地主義というのは彼がカメラマンだからかもしれない。
記者なら現地の新聞や政府機関などの発表を伝聞で聞いても記事が書ける。
しかし、カメラマンはそれでは仕事にならない。
超望遠レンズで、遠く離れた街が燃え上がる風景を撮ったとしてもあまり意味がない。
TVクルーも同様のはずなのだが、政府軍や国連軍、関係機関が様々な映像を提供してくれるし、政府軍引率の報道撮影ツアーが催される場合もある。
(こーゆーツアーには、日本のカメラマンも多数、同行している。)
当然、主催する側の都合の悪いところには行かないし、見せない。
政府が情報提供した典型例は、イラク戦争の時のミサイル映像がそうだ。
全世界の報道機関がこれに飛びつき、アメリカの軍需産業のセールスマン役を買って出た。
あんなもんは、まったくもって、報道ではない。
少なくとも、テロリスト集団に着弾するところは映っていないし、着弾点のすぐそばの学校で学ぶ子供たちの姿も見えないのだから。
逆の立場も然りである。
村田氏は湾岸戦争当時、イラク政府が誤爆で破壊された病院や学校の写真を撮ることを強いられた、と、その著書に書いている。
どちらも自分に都合のよい報道をさせるために報道陣を利用しようとする。
政府組織や国の機関の正式発表に、中立的な情報はない。
その組織の見解であり、その国の立場であり、主張である。
それをいつの間にかお茶の間では世界で起きている真実の"全て"であると、信じてしまう。
真実であることには間違いないかもしれないが(加工された映像なんていうのは問題外)一面的にとらえた真実でしかなく、それは"全て"ではない。
身近な、例えば日本の刑事被告人の例でも同じような事が言えるだろう。
あるアパートの隣人を刺殺した被告人がいたとしよう。
被告人の立場から、その生い立ちを取材し、その犯罪に至るまでのドラマを作ったとする。
刺された隣人の分も、同様に生い立ちからの人生ドラマを作る。
どちらが真実か?といえば、もちろん両方とも真実だ。
でも、片方のドラマだけを見たら、見た人の感情は違ってくるだろう。
被告人が悪いことは間違いないにしても、被告人の生い立ちからのドラマを見た「裁判員」は、量刑を少しだけ軽くするかもしれない。
反面、被害者のドラマだけを見た「裁判員」は、極刑を望むかもしれない。
それと同じ話だ。
むしろ国と国の話の方が複雑なだけに、いくつもの見方をするべきである。
人の数だけ正義があり、人の数だけ真実があるのだと思う。
例えば、パレスチナ問題って一言で言うけど、誰が正義なのだろう?
って、そんなもんはない。
ない、のではなく、むしろ、人の数だけ、人生の数だけ正義は存在する。
だから片方の言い分ばかりを聞いていると事実を偏って認識してしまうかもしれない。
実は、この村田さんはイスラム教徒である。
どこまで敬虔な信者かは知らないが、酒は飲まないし、モスクでお祈りもするらしい。(毎日欠かさずしているかは知らない。)
多くの日本人は「イスラム教徒」というだけで、「自分とは違う何か」と考える人も多いのではないだろうか?
もっと言うと「イスラム教徒ってなんでテロとかするの?」というわけのわからないことを言う人もいるかもしれない。
イスラム教徒が、皆、テロリストのわけがないし、イスラム教以外のテロリストもたくさんいる。
ある調査では世界人口68億人の4分の1を占める15億7000万人がイスラム教徒だという。
もちろん、その大多数のイスラム教徒は「普通の人」だ。
ITエンジニアだっているし、女子大生だっている。
彼らは、音楽も聞くし、ダンスもするし、菓子だって食べる。
でも、彼らイスラム教徒の考える正義であったり理想というものは、欧米の報道機関では、ほとんど報道されることはない。
そんな彼らの内側から見た戦争というものを、一読してみるのも、見識が広がるのではないだろうか?
「戦争の裏側」村田信一著
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